つねに念頭に置いているもの

ラカンは出来事の通常の流れを中断させるものとして無意識を提示しているのだが、無意識をひとつの審級だとは決して考えではない。彼にとっての無意識は、偽りの自己感にもとづく自我のディスクールを中断させるように、意識や主体の関与から引き離されたディスクール、すなわち他者のディスクールであり続ける。中断としてのそしてディスクールやそれ以外の意図的能動性への介入としてのフロイト無意識に主体性を帰属させることからは、ラカンの主体の特殊性を説明することはできない。では、無意識の主体とは誰なのか。どうすればそれを位置づけることができるのか。この間いに直接答える前に、無意識の主体でないものをよよ極める作業を続けよう。デカル卜的主体とその転倒フロイ卜的主体のきわめて独特な点は、それがひき上がってきてほとんど一瞬で消えてしまうということである。この主体に関して主体的なものなど何もない。フロイ卜的主体は存在を持たないし、基体もしくは時間における永続性を持たない。要するにそれは私たちが主体について話しているときにつねに念頭に置いているようなものを持たないのである。それはまるで線香花火のように燃えてすぐに消えてしまう。 無意識とラカン

運命づけられるということ

盗まれた手紙の話において王妃から盗まれる手紙が持つ物質性と似た、ある種の物質性を担う。登場人物から別の登場人物へと次々に影響を与えるのは、手紙=文字の内容ではなく、手紙が文字にほかならない以上それに内容はない、その物質のようなあるいは対象のような性質である。この物語のなかの手紙=文字は、登場人物を次々と特定のポジションに固定する。それは現実的な対象であり、何も意味しない。最初の現実的なもの、すなわちトラウマや固着について言われる際の現実的なものは、ある意味で、それをめぐって象徴的秩序が循環するよう運命づけられるが、それにたどりつくことは決してできないような、ひとつの重心というかたちで回帰する。それは連鎖そのものの内に不可能性を生じさせ、ある任意の言葉はランダムに現れることはできず、一定の他の言葉の後にのみ現れる、連鎖が回避し続けるしかないようなものをつくりだす。これによって、われわれは、第二段階の現実的なものへと、そしてラカンの原因概念へとアプローチすることができる。